DVD

01. イントロ:鉱山のダイアモンド
02. フェイマス・ブルー・レインコート
03. まるで大きな国家だ
04. 電線の鳥
05. どちらかは間違ってはいないはず
06. ストレンジャー・ソング
07. 今夜はうまくいくだろう
08. 島は包囲されている
09. そんなふうにサヨナラを言ってはいけない
10. さあ別の歌を歌おう
11. ジュディ・コリンズがスザンヌを紹介 〜 スザンヌ
12. ジョーン・バエズ:喧騒の中で
13. パルチザン
14. ナンシー
15. クレジット:さよならマリアンヌ

CD

01. イントロ
02. 電線の鳥
03. イントロ:さよならマリアンヌ
04. さよならマリアンヌ
05. イントロ:今から新しく始めよう
06. わたしの正体
07. 詩へのイントロ
08. 真夜中の貴婦人
09. 彼らは男を閉じ込めた(詩)/肉食う男/イントロ
10. どちらかは間違ってはいないはず
11. ストレンジャー・ソング
12. 今夜はうまくいくだろう
13. そんなふうにサヨナラを言ってはいけない
14. 鉱山のダイアモンド
15. スザンヌ
16. さあ別の歌を歌おう
17. パルチザン
18. フェイマス・ブルー・レインコート
19. ナンシー

レナード・コーエンレナード・コーエンの最初の2枚のLPに収められている名曲のライヴ・ヴァージョンの数々、「さよならマリアンヌ」「ストレンジャー・ソング」「そんなふうにサヨナラを言ってはいけない」「スザンヌ」「電線の鳥」「わたしの正体」「パルチザン」を含む歌と詩と語りが、ワイト島の殺気立った60万の聴衆の心を鎮めた。DVDには、フェスティバルで共演したジョーン・バエズ、ジュディ・コリンズ、ボブ・ジョンストン、クリス・クリストファーソンの2009年のインタビューが加えられている。

ボブ・ジョンストンは回想する。「聴衆はヘンドリックスのステージに火をつけたあと、雨の中にたたずんでいた。誰も何日も眠っていなかった。そのとき、レナードが登場し、“電線の上の・・・ 一羽の・・・ 鳥のように”と言葉をかみしめるようにゆっくりと歌い始めた。聴衆の心はコーエンの心とひとつになり、コーエンの言葉が彼らの心に一語一語沁み渡っていくようだった。私はそれまでそのような働きをする歌を聞いたことがなかった。それがコンサートを、フェスティバル全体を、救ったのだ」— ボブ・ジョンストン、『ライヴ・アット・アイル・オブ・ワイト1970』ライナーノートより

 

およそ40年前の夏、1970年8月31日の夜、35歳のレナード・コーエンはトレーラーの中で仮眠をとっていた。彼がゆり起こされ、ステージに連れ出され、バンドと演奏したのは午前2時のことだった。第3回ワイト島ミュージック・フェスティバルに集まった60万人の聴衆は、興奮の極みに達していた。ジミ・ヘンドリックスの過激な演奏に煽られ、見境がなくなった聴衆は、フェンスを壊し、ステージや機材に火をつけた。フェスティバルは殺気立った反体制運動の様相を呈していた。ジミが亡くなる約3週間前のことである。

ヘンドリックスに続いてコーエンが登場したとき、ジョーン・バエズ、クリス・クリストファーソン、ジュディ・コリンズなど主な出演者は、ステージの脇に立って見ていた。彼らは、このカナダ人フォークシンガー・ソングライター・詩人・小説家が、殺気立った群集をなだめ、落ち着かせるのを目撃して驚愕した。フェスティバルの撮影を依頼されていたのは、ドキュメンタリーフィルム制作者、アカデミー賞受賞者のマレイ・ラーナーだったが、彼はコーエンのステージもしっかりと撮影した。このときのラーナーの映像は1995年まで日の目を見ることはなかった。録音担当は、コロムビア・レコードのA&Rプロデューサー、テオ・マセロで、彼は表向きはマイルス・デイビスの録音をしにきたのだが、コーエンのライヴ・レコーディングを監督する役も見事に果たした。

『レナード・コーエン/1970年、ワイト島で歌う。』は、詩人、小説家としてはその時すでに15年のキャリアを誇っていたが、レコーディング・アーティストとしては新人だったコーエンの魅力的でタイムリーなポートレートである。コーエンは、実話やフィクションからなる13のストーリーを歌い、自らの詩を朗誦した。聴衆はまるで催眠術にかかったかのように魅了された。およそ40年間、手つかずの状態で保存されてきた映像と音源が、DVD+CD の2ディスク・パッケージとしてリリースされる。

『1970年、ワイト島で歌う。』のCDは、コーエンと彼のバンドによって演奏された77分のコンサートの模様を伝えている。ボブ・ジョンストン(コーエンの、ナッシュビルのコロムビア・レコードのA&Rプロデューサー)とナッシュビルのミュージシャン、チャーリー・ダニエルズ(エレキベース、フィドル)、ロン・コーネリウス(リードギター)、エルキン・ブッバ・ファウラー(ベース、バンジョー)。バックアップ・コーラスはコーリン・ハニー、スーザン・マスマノ、ドナ・ウオッシュバーン。コーエンは、ジョンストン(コーエンの当時としては最新のセカンドアルバム『ひとり、部屋に歌う』のプロデューサー)がマネジメントを行ない、バンドメンバーを集めるという条件で、ヨーロッパツアーを行なうことに同意したが、そのツアーをしている間に、彼らは自分たちを“軍隊”と呼び始めた。ツアーの間に引き起こされた過激な聴衆との“闘い”に対処する必要があったからである。

『1970年、ワイト島で歌う。』のDVDはマレイ・ラーナーの傑作である。彼はアカデミー賞にノミネートされたニューポート・フォーク・フェスティバルの1969年のドキュメンタリーフィルム『フェスティバル!』で知られている。このドキュメンタリーがアイル・オブ・ワイト・フェスティバルのプロモーターたちを刺激し、彼にワイト島フェスティバルの撮影を依頼することになったのである。1970年のフェスティバルは極めて暴力的で、1968年から3年続いた最後のフェスティバルとなった(このフェスティバルを有名にしたのは、ボブ・ディランである。ディランは、1966年の今では伝説のオートバイ事故後初めて、1968年人前に登場し、このフェスティバルで歌ったのである)。

このときのラーナーのフィルムは長い間資金不足のため、日の目を見ることがなかったが、ようやく1995年になって、複数のアーティストが登場する『メッセージ・トゥ・ラブ』というビデオになった。コーエンが歌う「スザンヌ」の断片も収められている。それ以来、ラーナーがこのとき撮影したマイルス・デイビス、フー、そしてジミ・ヘンドリックスの映像は、新しい世代の音楽ファンに多くの刺激を与えてきた。1980年、ラーナーの『フロム・マオ・トゥ・モーツアルト:アイザック・ストーン・イン・チャイナ』はドキュメンタリー部門でアカデミー賞を受賞した。

『1970年、ワイト島で歌う。』に付いている2000語からなるエッセイによって、伝説となっているコーエンのワイト島コンサートに関する歴史的事実が明らかにされる。書いたのはベテラン・ロック・ジャーナリスト及びBBCコメンテーターのシルヴィー・シモンズ。シモンズは、高い評価を得たニール・ヤングの伝記(『リフレクションズ・イン・ブロークン・グラス』2003年)や、サージ・ゲインズバーグなどの伝記の著者として知られている。彼はまた2003年、ソニーとイギリスの雑誌“モージョー”が共同でリリースした『モージョー・プリゼンツ・アン・イントロダクション・トゥ・レナード・コーエン』のライナーノートも書いている。

シモンズは次のように述べる。「歌う前に、コーエンは暗くて見えない何十万という聴衆に向かって語りかけた。彼は、静かに、聴衆にひとつの思い出話を語った。それは寓話のようでもあり、お伽話のようでもあった。彼の語りかけは催眠術のような働きをし、同時に聴衆の熱を計る役も果たした。彼が子供のときに父に連れていってもらったサーカスの話である。レナードは、サーカスは好きではなかったが、男が立ち上がり、暗闇の中でお互いがどこにいるか分かるように、観客にマッチを点けるように言うところが好きだったと言う。そして、聴衆に向かって言う。“みなさん全員、マッチをつけてもらえますか。お互いがどこにいるか分かるように”」

『1970年、ワイト島で歌う。』で歌われている歌は、3曲を除きすべて最初の2枚のLPに収められている。デビュー作『レナード・コーエンの唄』からは「さよならマリアンヌ」「どちらかは間違っていないはず」「ストレンジャー・ソング」「そんなふうにサヨナラを言ってはいけない」「スザンヌ」が歌われ、2枚目『ひとり、部屋に歌う』からは「電線の鳥」「わたしの正体」「今夜はうまくいくだろう」「パルチザン」「ナンシー」が歌われる。他の3曲は「鉱山のダイアモンド」「さあ別の歌を歌おう」「フェイマス・ブルー・レインコート」で、これらは1971年にリリースされた3枚目のアルバム『愛と憎しみの歌』に収められている。「さあ別の歌を歌おう」は、ワイト島でのライヴ・ヴァージョンである。

コーエンは今年初め、アメリカで歴史に残るコンサートを行なった。評判の高いカナダ、ヨーロッパ、オーストラリア、ニュージーランドでのコンサートの合間に、2月にはニューヨークのビーコン・シアターで、4月には、カリフォルニアのコーチェラ・フェスティバルで演奏した。それは、彼がサンガブリエル・フォレストの山の頂にあるマウント・ボールディ・禅センターで5年にわたる修行を始めた1994年以後、初めてのアメリカでのコンサートであった。

コーエンは1999年にレコーディングとツアーに戻り、2001年には『テン・ニュー・ソングズ』がリリースされた。同じ年にライヴ盤『フィールド・コマンダー・コーエン』もリリースされた。これは1979年のイギリスツアーの音源からの曲を集めたもの。更に、2004年には『ディア・へザー』がリリースされ、2006年には、アンジャニ・トーマスのデビューアルバム『ブルー・アラート』がリリースされた。彼女は80年代からコーエンの弟子的存在である。アルバムは全曲コーエンとアンジャニの共作で、コーエンによってプロデュースされた。2008年3月10日には、コーエンはロックの殿堂入りを果たした。2009年5&6月には、『ライヴ・イン・ロンドン』が、DVDと2枚組のCDが別パッケージでリリースされた。このアルバムは傑作との評価も高く、2008年にロンドンのO2アリーナで録音されたもの。その間の2002年には『エッセンシャル・レナード・コーエン』がリリースされた。その中に収められている31曲は、コーエン自身が一枚目の『レナード・コーエンの唄』から2001年の『テン・ニュー・ソングズ』までの作品から選んだものである。2007年5月、未発表のボーナス曲を含む『レナード・コーエンの唄』『ひとり、部屋で歌う』『愛と憎しみの歌』をリリースした。

『1970年、ワイト島で歌う。』のすべての曲は「パルチザン」を除いてレナード・コーエンが書いたものである。切迫感に満ちた「パルチザン」はもともと、第二次大戦中のフランスにおけるレジスタンスの歌で、「アンチェインド・メロディ」や「ワン・ミートボール」で知られる作詞家ハイ・ザレットによって英訳された。ジョーン・バエズは長い間「パルチザン」を歌ってきたが、コーエンはワイト島のコンサートで、この歌を彼女と“彼女の仕事”に捧げた。バエズがこの歌をレコーディングしたのは、1972年のアルバム『カム・フロム・ザ・シャドーズ』においてである。アルバム・タイトルはこの歌の一節からきている。

ジョーン・バエズは、ジミ・ヘンドリックスの前に演奏した。彼女は、2009年にラーナーのインタビューに応えた4人のフェスティバル参加者のひとりである。他の3人は、ジュディ・コリンズ、ボブ・ジョンストン、そしてクリス・クリストファーソンである。彼らのインタビューは、『1970年、ワイト島で歌う。』に歴史的なインパクトを付け加えている。

シモンズは述べている、「素晴らしい演奏だった。そしてラーナーのカメラは、コーエンのゆるぎない存在感、催眠的魅力、そして、あの巨大で人を寄せ付けない空間では不可能としか思えない聴衆との親密なやり取りを捉えている」。ジョンストンは次のように要約する。「最初の瞬間から最後まで魔法のようだった。あんなパフォーマンスを見たことがない。実に驚異的だった」

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